平方勘三(ひらかた かんぞう)のプロフィール

セドリで起業し通算5億円を売り上げるまで

ただただ長い自分史、お暇な時にでもどうぞ

平方勘三、1965年生まれ、群馬県出身。

地元の高校を卒業後、そのまま地元の企業に入社、流れるままに総務部に配属されることとなる。

本人は全くやる気がなかったものの… 結果としてここで1,000人規模の会社の人事、福利厚生業務を学ぶこととなる。

当時18歳、周りの仲間を見ればほぼ大学生、この状況に「なんで自分だけ仕事してるんだ、なんて理不尽な!」と憤り、その後1年余りであっけなく退社、何の目的もないまま東京の友人を頼り上京、当時新宿西口にあったステーキハウスに勤め始める。何一つ計画性のないそんなアホな男なのである。

ステーキハウスに勤めたきっかけは肉が好きだったこと(^^ゞ

何も下調べしないまま務め始めたそのレストランは、鉄板のテーブルを囲むお客さんの前でステーキを焼くという、動機不適当な人間に対しては相当ハードルの高い店だと気づくことになる。

それでも持ち前の負けん気の強さで、渡された白衣を着込み、背の高い帽子を被り、やがて難なく仕事に溶け込み、日々妙な満足感を持ったまま結果として2年余りの時間を実に楽しく過ごすこととなる。

体を使い、汗水流す高校の部活的ノリのこの水商売が、自分にとっての天職なのではないかと考え始め、ご多分に漏れず将来は自分で店を、とまで思い込むこととなる。

ところが、当時バブル経済へと猛烈な勢いで突入する日本、経済の濁流に一気に飲まれビルごと「地上げ」されたその新宿のレストランはあっけなく閉店、20歳そこそこの青年は「ああ、仕事ってなくなるんだ」と身を持って知ることとなる。

フリーターの先駆け

突然仕事を失ったものの、一切高望みなどしない(知らない)青年の勤め先などこの時代実に引く手あまただった。

まだそんな言葉はなかったものの、アルバイトを掛け持ち、いわゆる「フリーター」として日々をこれまた楽しく過ごし、大手ホテルの裏方から、バーテンダー、中古車の陸送の仕事など全く共通点のない仕事に次々と手を出していく。

ただ、時は1980年代後半、世間の風潮は定職にもつかず、ただふらふらしてるとしか見えない青年にはことのほか冷たかった(今ならフリーランスですとかっこよく言い切れるのに)。

昭和40年生まれの自身の心にも、そんなの旧前とした考え方はどっかりと根を下ろしていて、充実していながらも、「このままじゃいけない」という相反した自己否定を絶えず抱えながら、焦燥感とともに生きることとなる。

とんでもない体験

日とは努力して目標を定めて邁進すれば必ずその目標にたどり着ける。よくそんなことを聞くが何の努力もなくわけも分からずものすごい地位に着くなんてことも実際にあったりする。

東京でてきていた20歳そこそこの青年にあるプロジェクトの話が届いた。それは、とある金持ちがリゾートホテルを建設し、そこのオープニングスタッフを募集するという話だった。

そろそろ東京にも飽きたし田舎に帰るのもいいかななど暢気に構え、知人を頼りにそのオーナーのもとを訪ねることとなった。

なんやかんや話しているうちに採用が決定、新しいホテルはどんなところなんだろうと夢見る青年に突如告げられた辞令は「総支配人」だった。

総支配人?30室以上を持ち、テニスコートにプール、会議室から、美術室まで備える当時としてはそこそこのホテルである、総支配人と言われても…?

当初はまさにそんな戸惑いしか浮かばず、それでもその場で無理ですと断らなかった気の強さだけは誰にも負けない青年であったのだ。

結果だけ言うとそのホテルに2年弱勤務した。20人ほどのスタッフを引き連れ、支配人として休みも取らず朝から晩まで、フロントから、ボイラーの管理、客室清掃から、レストランの調理と若い体をフル活用して懸命に勤めた。

しかしながら、当時は楽天トラベルどころか、インターネットもない時代、今思えば営業戦略が全くなっていなかった山中のホテルは来る日も来る日も閑古鳥が鳴く状況となりやがて訪れる閉館へと加速度的にひた走った。

就職してみる

仕事を経営面から見る経験をさせてもらえたことは青年にとって唯一無二の宝となった。そして、紆余曲折再び上京した青年は、とある会社の面接を受けることになる。

時は1993年、バブル経済が崩壊した日本は求職者が溢れかえっていた。相変わらずのアホでそんな世の流れにも気づかない青年は、髪を切り、スーツを着込み、求人雑誌フロームAの大見出しで見つけた「不動産管理」なる職種の会社の面接へと向かう。

その会社を選んだ理由は、不動産業界を知りたかったこと(ここでも好奇心が先立つ)、高卒OK、そして給料はともかく(実にお金には疎かった)、大手保険会社の子会社という成り立ちで、異常なほど厚生面が充実していて、休みが年間で144日もあるという破格の待遇に惹かれた。

倍率20倍、たった一人採用の難関(後で知ったのだが)をなぜか突破、就職へとこぎつけた青年、この時28歳であった。

この不動産管理会社在籍中は、不動産の売買、賃貸、投資まで学ぶことができ、水も合ったからか、待遇が良かったのか(笑)、起業する42歳までの15年間身を置くこととなった。

趣味三昧

15年在籍した会社、実のところ恐ろしく暇であった。

大手保険会社の子会社の不動産部署、この会社の役目とは…

そう、税金対策以外の何物でもなかったのだ。5時と同時に帰宅、週休二日で、有給は全消化を求められる、そんな会社って…

この有り余る時間の中で出会ったのが高校生の頃に部活やっていたバドミントンという競技である。

突如としてのめり込んでしまったこの競技では結果として東京都の代表選手にまで上り詰める。そして、バドミントンを通して出会った女性と結婚、一児をもうけ、子育ての中人生の幸福期を迎えることとなる。

ここまでの総括

さて、つらつらと書き連ねましたが、ここまでお読みいただけるなんてなんともうれしい限りです。

このような私の人生を総括してみて思うことは、全くのアホだったにもかかわらず実に運良く、実に普通に、人並みに過ごしてこられたということです。

でも、こんな私にも一つ自慢できることがあります。それは自分自身の「誠実さ」です。

うわーくさい言葉が来たー!と引かないでください。

これまでの人生の中、そして今でも、どのシーンでもその場その場で掛け値なしに物事に、仕事に誠実に全力で取り組んできました。本当にこれまでの私の人生を「運が良い」と捉えるとすれば、それは正に誠実さ、まじめさが成し得た結果だと強く信じているのです。

飽きっぽい、落ち着きない、キョロキョロする

15年もの間サラリーマンとして不動産管理の会社で働いてきたわけですが、実のところは就職して数年でこの仕事には飽き飽きしていました、はい。

それでも厚生面の良いことや、好きな趣味に打ち込めること、何より安定した収入(給与)を得ることができ、子供を養い、社会的信用も得て、ささやかながらも安定した家庭生活がおくれること、これがこの会社に長く在籍していた理由でした。

でもですねえ。やっぱり人間の本質は変わりません。

安定という名のぬるま湯にどっぷりと浸かっていると、極寒の荒野に飛び出して新しい居場所を探したくなるものです。完成させたもの粉々に壊して、また一から新たの物を構築したくなるんです。皆さんにはそんな部分はありませんか?

私だけでしょうか?

そして、15年もの間押さえ込んできたそんな思いはやがて爆発へと向かうのでした。

副業三昧

ひたすら自尊心との戦いのサラリーマン生活。まあ、少なからずみんなそうですよね。

大人は誰でも「我慢」してます。

でも、できません。私本当にできないんです。病気でしょうか?

心底サラリーマン生活には辟易していました。有り余る時間もあります。その在籍中に始めていたんですね、副業です(すみません当時の規定についてはよくわかりません(^^ゞ)。そうです、「セドリ」です。

持ち前の嗅覚であっという間にペースをつかんだ私は、セドリにのめり込み、副業でやっていたにもかかわらず給料とどっちが多いんだ?というところまで行きました。

わくわくが止まらない状況、アドレナリン出まくりの毎日が突如として訪れたのです。

会社から帰り、カバンを置くや否やパソコンに飛びつき、家族の冷たい視線を尻目に、いそいそと注文の入った荷物を梱包しては郵便局まで走る、しばらくはそんな日々の繰り返しでした。

とにかくやってみるの人生

私がパソコンを最初に所有したのが多分1994年ごろです。1995年ごろにはインターネットにも接続していたので、そういった意味ではwebの世界に飛び込んだのはかなり早方だったと思います。

この辺の副業の日々や、やっていた内容は本文の方に詳しく書いています。

そして、2008年42歳の春、すっぱりと会社を辞めて独立開業した私。独立初年度から年商は3,000万円を上回り、数名のアルバイトとともに、紆余曲折あるなか今現在も毎年同じようなペースで仕事を続けています。

平方勘三の長い自己紹介(自分史)終わりです。

ご拝読ありがとうございました。